Thoughts and Healing

心を整えるために 頭の中のこと 日々想うこと

乗代雄介「旅する練習」≪読書感想≫に追記しました🙇

昨日のこちらの記事に以下の追記をしました。

今は(終焉してない)コロナにくわえて世界中が戦争の空気に覆われていて、いくらポジティブに明るくしてたほうがいいとわかっていても、先が不安で未来が見えにくく、今の生活や自分の人生がいつまで続くかなんてわからないと感じてる人も多いと思います。私自身がそうなんだけれども😅その中でこの小説を読むと、自分はこの人生をどう生きるのか、どう生きたいのか、改めてそんなことを問いかけられているような気がします。

thoughtsandhealing.hatenablog.com

<追記>2024/10/8 記憶に残しておきたいシーンとそこから思うこと

記憶に残しておきたいと思ったシーンを引用しようと思っていて忘れてたので追記です。

 1. P42-43

ほとんどの鳥が体から出る脂を羽に塗って水を弾くようにしているのにカワウは水に潜って魚を獲るため脂がほとんど出ず、潜ると羽はびしょ濡れになるので羽を広げて乾かしているという、その様子を見て亜美はカワウの方が好きだという。「だってさ」・・・

「魚を獲るために生まれたみたいでかっこいいじゃん」

「そういう生き方をしないと死ぬから、カワウはみんなそうやって生きられる」そう言うことで溢れた感慨が「うらやましいな」と口をついた。

「人間は無理?サッカーをするために生まれてきたみたいとかよく言うじゃん」

「やらなくても死なないから」

「小説書くのもそう?死なない?」

「死なない」

 そうでなかったら、つまり書かなければ死んでしまうとバカらしい気負いでなく自然に受け入れられたら、カワウのようになれるかも知れなかった。

「メッシって一冊も本読んだことないんだよ」驚いている私に亜美は続けた。「伝記に書いてあったもん。あこがれのマラドーナの自伝なら大丈夫かもって読み始めたけど、半分でやめちゃったんだって!」さも楽しそうに言って、笑いながら付け加える。「でも、あたしはそのメッシの本、全部読めちゃったんだよね」

 私は何も言えなかった。本を読めたらメッシのようにはなれないなんてことはない。本を読まない人間は山ほどいたが、誰もあんな風にはならなかった。しかし、まるで動物と人間の断絶のように思えてしまうこの違いについて、何を考えればいいのか。どう生きれば、メッシのようになれるのか。逆に、サッカーをしなかったメッシがどう生きるかを想像することは、なぜこんなにも難しいのか P42-43

みどりが羨むような好きなことやりたいことがあっても、たとえばカワウのようにそうしなければ死んでしまうということはないし、メッシのように生きるためにサッカー以外のことはできないかのような天才は一握りで、自分はそうはなれない凡人であることを知りながら、それでも好きで努力し続けるしかない苦しさもあるんだよな。

2. P45

オオバンとユリカモメという普段は一緒にいない二種の鳥が誰かが餌付けをしているせいか不自然に集まっている様子を見て

餌を捲く人物の上空にユリカモメが真っ白に渦を巻き、下ではオオバンがひしめくのを想像した。それは珍しい光景かもしれないが、思い浮かべた以上、あんまり出くわしたいものではない。起こってもいないことを考えて、その通りだとか違っていたとか、そういう気分から離れたくて歩いているのに。P45

最後の一行がなぜか心に刺さった。最近の私は溢れかえる情報から起こってもいないことをあれこれ考えては、何が真実なのかに頭を悩ませているからかも。

3. P81

また河川敷に下りて歩けば、枯れたヨシ原の奥に利根川が平たく見える。コロナ禍という言葉が世に馴染んできても変わることのないその流れには目もくれないでボールを触る亜美はきっと、もっと上手くなりたいと願っていた。自分自身で求めたもの。求めること。それだけを考えて生きること。生きたこと。先の見えないこんな状況は、それを考えるのに適していると言ってしまってもいいのだろうか? P81

やっぱり全体にはコロナ禍の不安というのが前提としてあっての物語なんだなと思う。先の見えない、不安な状況で、どう生きるかという話なのかもしれない。

4. P104

そして、本当に永らく自分を救い続けるのは、このような迂闊な感動を内から律するような忍耐だと私は知りつつある。この忍耐は何だろう。その不思議を私はもっと思い知りたいし、その果てに心のふるえない人間が待望されているとしても、そうなることを今は望む。この旅の記憶に浮ついて手を止めようとする心の震えを静め、忍耐し、書かなければならない。後には文字が成果ではなく、灰のように残るだろう。P104

この忍耐というのが私にはよく理解できていないのだけれど、何かを書こうとするとき、特に小説を書こうとするとき、この迂闊な感動を内から律するような忍耐が必要なんだというのが何となくわかる気がしたりもする。けれど実際はわからないけれど、この文を残しておきたいと思う。

5. 137-138

翌日、みどりさんがこっそり教えてくれたところによれば、背を向けた亜美は「みどりさん、あたしね」と切り出した後で「サッカーと出会ってなかったら、今、何してたんだろうって、この旅でいっぱい考えたんだ」と言ったそうだ。「もしかしたらもっと勉強できてたかもしれないとか、小さい頃みたいにたくさん絵を描いてたかもとか。ジーコだって、サッカーと出会ってなかったらやせっぽちのままだったんでしょ。日記にもそのこと書いたんだ。そんなに辛かったのにやり通せたのは何でなんだろうって。でも、自分のいきざまを仕事に合わせなければならないってジーコは言ったって、さっき教えてくれたでしょ。それで、なんか、ちょっとわかった気がするんだ」どれくらいかはわからないけれど、亜美とても長い間、思い出すように考えるように、黙っていたという。「あたし、カワウがサッカーに関係あるなんて思ってなかったし、てゆーかそもそもカワウのことなんて知らなかったけど、全然関係ないことなかったんだよ。あたしが本当にずっとサッカーについて考えてたら、カワウも何も、この世の全部がサッカーに関係があるようになっちゃう。この旅のおかげでそれがわかったの。まだサッカーは仕事じゃないけどさ、本当に大切なことを見つけて、それに自分を合わせて生きるのって、すっごく楽しい。ジーコもそうだったんじゃないかな。そう思ったら、サッカーと出会ってなかったらって不思議に思えてきたの」そこで「じゃあさ」と急に声を弾ませて、亜美は布団の中で寝返りを打ち、みどりさんをじっと見たという。「みどりさんがそう思って、不思議になるものって、なに?」P137-138

もしも出会っていなかったら今の自分はどうなっていただろうと不思議に思うこと、それが大切なことであり、それに合わせて生きる。ジーコがサッカーのために肉体改造したように。

「本当に大切なことを見つけて、それに自分を合わせて生きる」わかるけど、すごく難しいよね。たとえ大切なことを見つけられたとして、それに合わせて生きるのは簡単ではないはず。

先の見えないコロナ禍でいつ死が訪れるかもわからないことなんだと思えば、好きなこと大切なことに合わせて悔いなく生きたいと思う人が多くなるかもしれない。それも時代の流れと言えるのかもしれない。

ほんとの最後に

なぜこの小説で亜美は事故で死ななきゃいけなかったのか。死ななければこの小説で伝えたかったことが伝わらないっていう何か大きな理由があるはずで。死はいつやってくるかわからないから、先はわからないから、自分にとって大切なことを見つけてそれに対して誠実に一生懸命生きることは美しいっていう、ことを伝えるために死ななきゃいけなかった?違う気がする。死ななくてもそこは書けた気もする。作家でもないのに何言ってんだって感じだけども。確かに亜美の生き生きした描写が、もうその亜美は失われてしまったんだと思わせるほどの鮮やかさで描かれているから。小説で人が死んだからって必ず泣けるわけじゃない。亜美だから、その衝撃が大きかった。生と死の重さはたしかに感じられたかもしれない。でもそれはこの小説に必要だったのか。私にはわからない。だけどやっぱりすごくいい小説だったと思う。亜美のことは時々思い出して生きててほしかったな、と思うだろう。そういう残り方をする小説。

 

 

またね🐾