Thoughts and Healing

BTSも本も映画やドラマも音楽も愛犬も健康も人生もそして政治もすべて同じように考える日々です🫶

言葉にして書く理由

毎日いろんなことを考えている。

真面目なことだけじゃなくて、推しを見てゆるみきった顔で考えることも含めて。そうして考えたあれこれを、自分の頭の中にとどめておくだけで満足できないのは何故なんだろう?政治への怒りは共感してほしいのか。推しへの気持ちも共感してほしいのか。人生における迷いも共感してほしいのか。答えがほしいわけではなく、共感あるいは承認あるいは肯定してほしいだけなのか。

一人で考えているのは孤独ではある。自分の考え方や感じ方がおかしいのかしら?と言うような不安にもなったりする。だから同じような考えや感じ方の人をみつけると嬉しい。それは孤独が少し癒やされるから?自分の考えや感じ方に自信をもてるから?そして自分を認め受け入れてあげられるから?どうして自分の意見だけでは自分を認めて受け入れてあげられないのだろう。誰かと一緒、できれば多数派と一緒であるほうが安心して自分は間違ってない、浮いてない、うまく溶け込んでると思えるのはなぜだろう。

小学生の頃、読書が好きだったおかげで国語だけは勉強しなくても成績が良かったのだけれど、一度ある物語を読んでの解釈が、先生の誘導したい理想の答えと違ってしまった時があった。先生はクラスみんながその答えにたどり着くように授業をしていたのに、私は最初に自分が感じたままの解釈を変えなかった。先生は私の答えを変えようとずっと説得だか説明だかをし続けた。私だけが先生の導きたい答えと違ったから。クラスメイトたちは、もう先生の言うとおりにしとけばいいじゃんと思っていたかもしれないし、先生の言う答えが正しいのになんで間違いを認めないの?と思っていたかもしれない。けれど私は答えを変えることはできなかった。それは孤独で孤立していて自分は大きな間違いをしているのかもしれないと、とても心細いことだった。

同調してしまえば楽で、みんなと笑い合えただろうし、先生からも面倒くさい生徒認定されなくてすんだのだろう。だけど、算数の答えならともかく、国語の物語の読解でそこは譲れなかった。だってそれは私自身を否定して嘘ついて先生に合わせるってことになる。私は先生の解釈を否定はしないけれど、私の解釈もこの世に存在していいと思っている。先生は、そんな考え方もあるのね、面白いわね。じゃだめだったのかな。と今でも思う。そんな昔の話と、今、自分の思いや考えを自分のジャーナルノートにではなく、こうして皆に開かれた場所に書き留めたいと思うことと、何か関係しているのかどうかもわからないけれど。

あのとき、クラスで孤立して一人立たされて先生に考えを変えさせられようとしていた私に、それでも意見を変えなかった私に「それでいい。あなたはその後も楽な人生は送れないけれども、そのままでいいんだよ」と言えるかな。日本で好かれるタイプの従順でかわいい女からはかけ離れてるけど。男性の、先生の、上司の、権力者の言うことをただよく聞いて、余計なことは言わない、自分の意見などもたない、そんな扱いやすい人間には絶対になれないけど。

でも、それでもそんな面倒くさい私を知った上で好きになってくれる友人も夫も過去の恋人も、数は少ないけどちゃんと存在する。仕事でみとめられることもちゃんとある。だから大丈夫だよとは言ってあげられるかもしれない。共感してくれる人も好きになってくれる人も、量より質だよね、って言ってあげられる。

そう言いながら、ブログはたくさんの人に共感してもらえるほうが嬉しいという矛盾を、ほとんど読まれることのないブログに書くという矛盾

結局は、頭の中を文章にすることが何より必要で好きなことなのかもしれない。たくさんの人に見てもらえて共感してもらえたり、なんかいいなと思ってもらえたらやっぱり嬉しいけれど、そうでなくても書いてきたし、これからも書くのだろう🐾

 

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