天気の良いあたたかい春の日、花粉に悩まされながらもかわいい飼い犬のシュナとのんびり散歩をし、いつものベンチに座る。
抱っこをせがむ甘ったれの愛犬を膝に抱き、首元をなでながらひなたぼっこをする。
前を歩いていくたくさんの人々を眺めぼんやりする。
犬は気持ちよさそうにあくびをしている。
日射しはあたたかく、私まで眠くなってくる。
こんな春の日のひとときが、信じられないほどの奇跡だとかみしめる3月11日
13年前、東京は長い横揺れだった。
本棚から本がこぼれ落ち、テレビが斜めに傾いた。
テレビをつけたら見たこともない光景が中継されていて、驚いてソファに崩れ落ちるように座った。
腕には生後半年にもならない娘を抱いていた。揺れてから一度も腕からおろすことができなかった。娘は、何も気づかず、ずっとすやすや眠っていた。それが救いだった。
濁流が家々を呑み込んでいくのを信じられない思いで見つめながら、長い時間立ち上がれずにいた。いつの間にか窓の外は暗くなっていた。
夫はその日会社から帰れず携帯はつながらずパソコンのメールでやりとりをして無事を確かめた。
家も家族も被害はなかったのに、東北の人たちの状況と比べたら何もなかったと言えるほどなのに、その信じられない規模の被害に大きな衝撃を受けていた。原発が壊れて放射能が漏れたというニュースが流れてその衝撃と恐怖はさらに大きくなった。
津波に飲み込まれた人々、家族を家を仕事を失った人々、放射能の恐怖におびえる人々。被災地の方々のショックと混乱と不安はどれほどのものだったか。
東京にいる私も、水道の水も飲めなくなったし、娘の散歩もためらった。娘の離乳食をはじめる日も遅らせた。
日常が一瞬で壊れる瞬間があることを肌で感じた。
あれから13年。娘は13歳になった。順風満帆とはとても言えないけれど、それでも健康で、笑って、生きている。それだけでいいんだと、今日は思える。
日常が当たり前ではないなんて言葉も使い古されているけれど、大きな災害や悲劇をみるたびに思う。
こうして、事故や事件や病気や災害や戦争から運良く逃れられているこの瞬間は奇跡なんだと。そう思うと、いつこの奇跡の時間が失われるかと怖くもなる。
けれどそれで怯えて動けなくなってしまうのではなく、この幸運な瞬間に感謝しつついつか死ぬその瞬間まで、あがきながらかっこ悪くも生きようと思う🐾
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