Thoughts and Healing

心を整えるために 頭の中のこと 日々想うこと

タイトルが素晴らしいと思う小説②眉をひそめながらもセシルに魅了されずにはいられない

内容はもちろんタイトルが素晴らしいと思う小説2冊目は・・・

フランソワーズ・サガン「悲しみよ、こんにちは」

言わずとしれたサガンのデビュー作。これを書いた時、サガンは若干18歳。フランス人だからというのもあるでしょうが、大人びています。そして、人間を見る目の冷静な観察力と深い洞察力がとても18歳とは思えません。南仏の海辺の別荘で四十歳の父親とその愛人と過ごす十七歳のセシル、自由で怠惰で甘美な夏のバカンスのはずが・・・

 *以下私の引用は全て、昭和30年発行 朝吹登水子訳からとなります。

 ものうさと甘さとがつきまとって離れないこの見知らぬ感情に、悲しみという重々しい、りっぱな名をつけようか、私は迷う。その感情はあまりにも自分のことだけにかまけ、利己主義な感情であり、私はそれをほとんど恥じている。ところが、悲しみはいつも高尚なもののように思われていたのだから。私はこれまで悲しみというものを知らなかった。けれども、ものうさ、悔恨、そして稀には良心の呵責も知っていた。今は、絹のようにいらだたしく、やわらかい何かが私に覆いかぶさって、私をほかの人たちから離れさせる。

書き出しです。こんな文章を18歳のサガンが書いたというのだから、本当に天才というのはいるんですね。しかも処女作。ずっと頭の中で構想していたとはいえ、これを3ヶ月で書き上げたそうです。

18歳の子が書いているとは思えない、男女の間の複雑な感情と駆け引き、父と娘の間にある感情、全ての人物の心の動きに対する洞察、矛盾したり相反したり揺れる気持ちが繊細に描かれています。そして美しい文章とドラマチックな展開、全体に流れる甘く怠惰な夏の雰囲気。

セシルは大人びているように見えても、やはり若く、幼く、正直で、それゆえに残酷です。でもそれがリアルさをもって、人間を浮かび上がらせているように思えます。セシルもアンヌも父親もエルザもシリルも、みなただの善人でも悪人でもなく、複雑な感情をもった人間であることがとてもよく描かれています。

<この先、内容に触れています>

素晴らしいと思った文章の引用と感想を書いていきながら、私なりに読み解きます。

理知的で魅力的で洗練された、しかし高慢で冷淡な42歳のアンヌが、若い半商売人のエルザに取って代わって父親の恋人になり結婚の話までするようになったことで、セシルのそれまでの暮らし、女たらしで仕事上手で好奇心が強く飽きやすく女にもてる父親との怠惰で安易な暮らしが変わりはじめる。セシルを管理し恋がはじまったばかりのシリルと会うことを禁じたり試験に合格するために勉強させようとしたりするアンヌ。

そして彼女は私に何をもたらしただろうか?(中略)彼女は徐々に私たちを、アンヌ・ラルセンの夫と義理の娘に仕立てようとしていたのだ。言い換えれば、おとなしく、育ちのよい、幸福な人たちに。(中略)私は泣きたいような気持ちで、昔、父と共謀したすべてのこと、パリの白い路を、あけ方自動車で帰ってきたときの笑いなどを思い出した。それらはみんな終ってしまったのだ。(中略)どんなことをしてもしっかりして、ふたたび父と、昔の私たちの生活を取戻さなくてはならない。突然、私には、いま過ごしてきたばかりの、陽気なめちゃくちゃな二年間が、どんなにか魅力的に映ったか知れない。この間、私があんなにも早く見捨てたあの二年間が・・・。考える自由、常識はずれなことを考える自由、少なく考えることの自由、自分の人生を選ぶ自由、自分自身を選ぶ自由。私は「自分自身で在る」と言うことはできない。なぜなら私はこねることのできる粘土でしかなかったが、鋳型を拒否する粘土だった。

アンヌと父親を別れさせるために、父親の元情人エルザと自分の恋人シリルに恋愛関係にあるかのように演じさせ、それを見せつけることで父親の気持ちをエルザへ向けさせる作戦を考えるセシル。父親、エルザ、シリル、アンヌの性格や気持ちを深く理解した上での作戦であるところが鋭い洞察力を感じさせる。

帰り道、私は父が考え込んでいるのに気がついた。父は、もしかしたら、実際エルザは若く、そしてシリルも若いのだと考えていたかもしれない。そして、同年配の婦人と結婚することによって、自分が一員であった『年齢のない男たち』の仲間から抜け出してしまうのだと。私は、無意識に、勝利の快感を覚えた。私は、アンヌの眼や口のまわりの小皺を見るとき、自分を非難した。けれども、自分の衝動に従いてい行き、それから後で後悔するということは、あまりにもたやすかった。

同時にセシルとシリルとの恋は熱を帯びてゆく。障害があればあるほどより思いはつのり夏の暑さがさらに拍車をかける。アンヌに勉強しているふりをしていたことがばれて「冷静な、人を辱めるこの軽蔑した態度」をされたことでカッとなり、会うことを止められていたシリルと結ばれるセシル。恋の恍惚をアンヌは察してしまう。議論になり、結果セシルを部屋に閉じ込めるアンヌ。水を飲みに行こうとして部屋に鍵がかかっていることを知り、恐れと混乱と怒りのなかで、セシルに残忍さが芽生える。

私は戸にぶつかって行って、肩をひどく痛めた。大声をあげて、人にあけに来てもらいたくなかったので、歯をくいしばって、鍵穴をこわそうとした。私は、爪切りばさみを鍵穴につっ込んだまま、空手で部屋の真ん中に立っていた。じっとしているうちに、考えがはっきりとしてきた。一種の平静さと平和とが、心に湧いてくるのを注意しながら・・・それは、残忍さに対する私の最初の接触だった。私は残忍さがしっかりと胸の中にむすばれ、私の考えにつれてますます激しくなるのを感じた。私はベッドにねころんで、綿密な計画を立てた。私の猛々しさは、その口実に対してあまりにも比例していなかった。午後、私は二度も三度も部屋から出ようとして戸にぶつかってはびっくりした。

セシルの「アンヌを家から放り出す」作戦は周到さを増す。そんな中で夏の太陽に照らされ、海の上で交わされるセシルとシリルの恋は、罪悪感のもとでさらに輝き、はげしくなってゆく。

それからは、塩水のさわやかさだった。私たちはいっしょに笑った。茫然と、気怠く、感謝しながら・・・私たちには、太陽と、海と、笑いと、恋とがあった。私たちは、あの夏のような、恐怖と悔恨があたえた、あの輝きと烈しさをもったそれらを、ふたたび見いだすことは決してないだろう。

アンヌを憎む気持ちと同時に存在する尊敬のような複雑な感情もまたよく描かれている。

彼女たちは、一方、人生で何もしていないこと、他方人生を十分に生きたい欲望の結果、しばしば意地悪で感じが悪かった。アンヌの冷静さが、いつもより一層この女性を救いがたい退屈な女性と私に感じさせた。(中略)父の女友達の中で、アンヌとの比較に長いこと堪えられる人がいるか、私には見当がつかない。〔中略)アンヌが、私たちの友人たちに対して示すであろうこの慇懃さを、私もいっしょに分け合う用意ができているように思えた。この愛想のよい、伝染性のある慇懃さを・・・それにもかかわらず私が三十になったとき、私は自分がアンヌよりも、私たちの友人たちに似ているだろうと思えた。アンヌの沈黙が、その無関心さが、その遠慮深さが私を窒息させてしまうだろう。

複雑な感情の中で、作戦は着々と進み、とうとう父親はエルザに会いに行ってしまう。

そのときだった。アンヌが現れたのは・・・。彼女は林のほうから来た。彼女は走っていた。危なかしく、不器用に、両肘を体につけて・・・。私は突然、年取った婦人が駆けていて、今にも転がりそうだという、変な印象をうけた。私は愕然としたままだった。(中略)「アンヌ、私たちあなたが必要なのよ!」彼女はそのとき、体を起こした。顔を歪めて・・・彼女は泣いていた。私はそのとき、自分がひとつの観念的実在物にではなく、生きた、感じやすい人間を攻撃したのだということを知った。彼女はきっと少しはにかみ屋の小さな女の子だっただろう。それから少女になり、女になった。彼女は四十を過ぎていた。そして孤独だった。一人の男を愛し、彼と共に十年、あるいは二十年幸福でいようと希望していたのだ。それなのに私は・・・。この顔、この顔、これが私の作品なのだ。私は化石のように、車のドアに身を押しつけたまま全身でふるえていた。

こうしてセシルの作戦は成功したわけだけれど、それをセシルも父親も喜びはせず、深い後悔とどうにかしてアンヌに許してもらい戻ってきてもらおうとして手紙を書く二人。セシルの、その心持ちの変化のしようが、またリアルだと感じます。あんなにも邪魔に感じていたのも事実であり、今、深い後悔で打ちひしがれているのも事実である。移り気で残忍で大人びていながら幼い17歳のセシルのリアルに思えます。

そして、アンヌはそのまま自殺とも事故ともとれるような車の墜落で亡くなってしまう。

この先の展開と終わらせ方、セシルの心の変化が、とてもよかったです。

翌日、私たちは午後の三時ごろ家に戻ってきた。エルザとシリルが玄関の階に腰をかけて私たちの帰りを待っていた。彼らは色彩のない、忘れられた登場人物たちのように私たちの前に突っ立っていた。どちらもアンヌをよく知らず、またアンヌを愛していなかった。彼らはそこにいた。彼らのくだらない恋愛事件と、彼らの美しさの魅力と、彼らの気まずさとともに・・・シリルは一歩私のほうへ進んで、手を私の腕にかけた。私は彼をみつめた。私は彼を決して愛したことはなかったのだ。私は彼を善良で、魅力的だと思ったのだ。私は、彼が私に与えた快楽を愛したのだった。けれども、私は彼を必要としない。私はこの家から、この青年から、この夏から去ろうとしていた。

一ヶ月ほど二人はアンヌを偲び、アンヌのことを注意深く話しますが・・・

しばらくすると、私たちは普通の語調でアンヌのことを話すことができた。私たちと幸福でいることのできた、しかし神の御許に召された一人の愛する人のことを話すように。私は偶然のかわりに神という字を使った。しかし私たちは神を信じていない。こういう状況の中で偶然を信じることができるということはすでに幸福なことだ

そうしてそのうちセシルも父親も新しい相手と出会い、出歩くようになる。「予期していたように、また昔のような生活が始まった」

ただ、私がベッドの中にいるとき、自動車の音だけがしているパリの暁方、私の記憶が時々私を裏切る。夏がまたやってくる。その思い出と共に。アンヌ、アンヌ!私はこの名前を低い声で、長いこと暗やみの中で繰返す。すると何かが私の内に湧きあがり、私はそれを、眼をつぶったままその名前で迎える。悲しみよ、こんにちは。

昔のような生活が始まったと言いながら、もう無邪気な少女ではいられなくなった、悲しみを知ったセシルのひと夏の物語がこうして終わります。ここでいう悲しみは、普段私たちが使う悲しみよりももっと深い意味を含んでいるようにも思えます。もう戻ってこない失ったものへの悲しみ、それはアンヌであり、シリルとの恋であり、あの夏であり、無邪気で安易だった自分であり、そうした失ったものたちをいとおしむような哀れむような感傷的な思いにも感じられます。アンヌの死という重いできごとに自分が関与したことへの罪悪感も含めて心の奥に抱えながら、一見昔と変わらないような生活を送るセシルは、けれどやはりあの夏の前とは変わっているのだと最後の文章で感じることができます。

今回再読して、やはり今なお読み続けられるだけの作品だとしみじみ思いました。

サガンの他の作品も好きで一時期はまって読んでいました。「1年ののち」が手元にないことに気づく・・・読んだような気もするのですが。またこれらも再読したい気持ちになりました。