Thoughts and Healing

頭の中のこと 日々想うこと

タイトルが素晴らしいと思う小説③読んでる時は夢中なのに読み終わったらなぜだか全部忘れちゃうくらい圧倒される海外の小説たち

🐾個人的な読み&解釈です🐾

有名な本ばかりなので、言うまでもないんですけど、すごい本たちですよね。スケールが違います。そしてタイトルも強烈じゃないですか?それでいて、読んでる時は夢中なのに読み終わったら細かいこと全部頭から抜けてただ茫然としてる感じ。これは私の能力の問題なのか😂

↓ これらの本の話です ↓

その瞬間、瞬間、いろんなこと感じて考えてページの端も折ってるのに、読み終わって全体像をみたら、まとまらないし言葉にならなくて、結果「やっぱすごいわ」くらいしか言えないという。語彙力・・・でもそれだけありとあらゆることが盛り込まれてるんですよね。

ガルシア=マルケスガブリエル「百年の孤独」

まさに壮大すぎる!そしてタイトルが良すぎる。かっこいい。そりゃお酒の名前にもなる。

奇妙な寒村を開墾しながら孤独に生きる一族。その宿命を描いた、目も眩む百年の物語。
蜃気楼の村マコンドを開墾しながら、愛なき世界を生きる孤独な一族の歴史を描いた一大サーガ。

ガブリエル・ガルシア=マルケスについて
1927年コロンビアの小さな町アラカタカに生まれる。ボゴタ大学法学部中退。「エル・エスペクタドル」紙の記者となってヨーロッパにわたり、ジュネーブ、ローマ、パリ各地を転々とする。55年に処女作『落葉』を発表。1967年に『百年の孤独』を発表すると瞬く間に空前のベストセラーとなり、世界各国で翻訳された。以後『族長の秋』『予告された殺人の記録』『コレラの時代の愛』『迷宮の将軍』など次々と歴史的傑作を刊行。1982年にはノーベル文学賞を受賞した。

ラテンアメリカ文学。マジックリアリズム、日常と非日常、現実と非現実が、自然に入り交じって存在している世界。こんなに科学や文明が発達していなかった時代は、日本だってこんな風にもっと非日常が身近だったのだろうと思う。

長い歳月が流れて銃殺隊の前に立つはめになったとき、恐らくアウレリャノ・ブエンディア大佐は、父親のお供をして初めて氷というものを見た、あの遠い日の午後を思い出したにちがいない。マコンドも当時は、先史時代のけものの卵のようにすべすべした、白くて大きな石がごろごろしている瀬を、澄んだ水が勢いよく落ちていく川のほとりに、葦と泥づくりの家が二十軒ほど建っているだけの小さな村だった。ようやく開けそめた新天地なので名前のないものが山ほどあって、話をするときは、いちいち指ささなければならなかった。

昨年、文庫が発売されて話題になりましたね✨

ちなみにお酒はこちらですよ🤭かなり昔に飲んだことがあるんですけど、ウィスキーみたいなきれいな琥珀色で濃厚だったおぼろげな記憶・・・

ミラン・クンデラ 「存在の耐えられない軽さ」

書き出しだけで、わくわくします。なぜなら、新しい視点で世界を見ることができそうだから。私は「この人生は一度きりで時間も過ぎてしまうものだからこそ、大切で意味があるのではないか」と考えてました。でもこの書き出しでは「永劫回帰と比べて一度きりの人生というものは重さのない、前もって死んでいて、そこにある恐ろしさ、崇高さ、美しさは無意味」で「消え去ろうとしているものを糾弾することはできず」「この世界ではすべてのことがあらかじめ容認され、あらゆることがシニカルに許されている」と言います。確かに、どうせ死んでしまうんだから好きに生きるとか、過去は振り返らずに進むとか、そういう考えは人生一度きりだからこそできることで、それを軽さとするならば、確かに軽いのかもしれない。もしまったく同じ人生が永遠に繰返されるとしたら、人はもっと責任を感じて慎重になるのか?🤔そしてこんな始まりの小説が”官能的かつ哲学的恋愛小説”だということ!

書き出し

永劫回帰という考えは秘密に包まれていて、ニーチェはその考えで、自分以外の哲学者を困惑させた。われわれがすでに一度経験したことが何もかももう一度繰り返され、そしてその繰り返しがさらに際限なく繰り返されるであろうと考えるなんて!いったいこの狂った神話は何をいおうとしているのであろうか?

永劫回帰という神話を裏返せば、一度で永久に消えて、もどってくることのない人生というものは、影に似た、重さのない、前もって死んでいるものであり、それが恐ろしく、美しく、崇高であっても、その恐ろしさ、崇高さ、美しさは、無意味なものである。だから十四世紀にアフリカの二つの国家の間で戦われた戦争で、ことばにあらわしがたい苦しみの中に三十万人もの黒人が死んだにもかかわらず、世界の顔を何ひとつ変えなかったように、その恐ろしさ、崇高さ、美しさはまともにとりあげる必要はないのである。

十四世紀のアフリカの二つの国家の戦いが、永劫回帰の中で数限りなく繰返されたとしたら、何かが変わるであろうか?

変わる。それは目に立ち、永遠に続く塊となり、その愚かしさはどうしようもないものとなるであろう。

(中略)

どうして消え去ろうとしているものを糾弾できようか。消え去ろうとしている夕焼けはあらゆるものをノスタルジアの光で照らすのである、ギロチンでさえも。

(中略)
ヒットラーとのこの和解は、回帰というものが存在しないということに本質的な基礎が置かれている世界の、深い道徳的な倒錯を明らかにしている。なぜならばこの世界ではすべてのことがあらかじめ容認され、あらゆることがシニカルに許されているからである。

アフリカの二国間の戦いの話の部分をガザでたくさんの人が虐殺されていることに置き換えて考えてしまいました。このあまりにも酷い虐殺ですらも、世界の顔を何ひとつ変えないくらいに「軽い」ものなのかと。だとしたら、確かにそれは耐えがたい軽さです。

われわれの人生の一瞬一瞬が限りなく繰返されるのであれば、われわれは十字架の上のキリストのように永遠というものに釘づけにされていることになる。このような想像は恐ろしい。永劫回帰の世界ではわれわれの一つ一つの動きに耐えがたい責任の重さがある。これがニーチェが永劫回帰という考えをもっとも重い荷物と呼んだ理由である。

もし永劫回帰が最大の重荷であるとすれば、われわれの人生というものはその状況の下では素晴らしい軽さとして現れうるのである。

だが重さは本当に恐ろしいことで、軽さは素晴らしいことであろうか

(中略)

もっとも重い荷物というものはすなわち、同時にもっとも充実した人生の姿なのである。重荷が重ければ重いほど、われわれの人生は地面に近くなり、いっそう現実的なものとなり、より真実味を帯びてくる。

それに反して重荷がまったく欠けていると、人間は空気より軽くなり、空中に舞い上がり、地面や、地上の存在から遠ざかり、半ば現実感を失い、その動きは自由であると同時に無意味になる。

そこでわれわれは何を選ぶべきであろうか?重さか、あるいは、軽さか?

そうして始まる小説の内容は男女の愛の物語です。

苦悩する恋人たち。不思議な三角関係。男は、ひとりの男に特別な感情を抱いた。鮮烈でエロチック…。プラハの悲劇的政治状況下での男と女のかぎりない愛と転落を、美しく描きだす哲学的恋愛小説。 

フィリップ・カウフマン監督、主人公トマシュにダニエル・デイ=ルイス、テレーザにジュリエット・ビノシュを迎え、1988年に映画公開された原作小説。 - Amazon

ドストエフスキー「罪と罰」 

ドストエフスキー、好きです。罪と罰とういタイトルは、有名すぎますよね。人類にとって普遍的な問いの一つなのかもしれません。

貧困・孤独・狂気の渦巻く大都会のかたすみに、「理想的な」殺人をたくらむ青年が住んでいた。酔いどれ役人との出会い、母からの重い手紙、馬が殺される悪夢。ディテールが、運命となって彼に押し寄せる!歩いて七百三十歩のアパートに住む金貸しの老女を、主人公ラスコーリニコフはなぜ殺さねばならないのか - Book☆Walker

書き出し

 七月の初め、異常に暑いさかりの夕方近く、ひとりの青年が、S横町にまた借りしている小さな部屋から通りに出ると、なにか心に決めかねているという様子で、ゆっくりとK橋のほうに歩き出した。

 階段口で彼は、下宿のおかみとぶじ顔を合わさずにすんだ。彼が借りている小部屋は、五階建ての高い建物の屋根の真下にあって、部屋というよりもどこか戸棚を思わせるところがあった

ドストエフスキー「カラマーゾフの兄弟」 

誰なんだカラマーゾフ!と思いますよね、いったいどんな兄弟なんだと。私は光文社の古典新訳の亀山郁夫さん訳で読んだのですが、新潮文庫の原卓也さん訳も読みたくて古本屋で買いました!(まだ読めてません😓)

小説本文の前に著者の言葉が載っています。そして多分それもまた小説に含まれるのではないかと思ってしまうほど魅力的なので、そこを書き出してみます。

光文社古典新訳 書き出し

著者より

 わたしの主人公、アレクセイ・カラマーゾフの一代記を書きはじめるにあたって、あるとまどいを覚えている。それはほかでもない。アレクセイ・カラマーゾフをわたしの主人公と呼んでいるものの、彼がけっして偉大な人物ではないことはわたし自身よくわかっているので、たとえば、こんなたぐいの質問がかならず出てくると予想できるからである。

 あなたがこの小説の主人公に選んだアレクセイ・カラマーゾフは、いったいどこが優れているのか?どんな偉業をなしとげたというのか?どういった人たちにどんなことで知られているのか?一読者である自分が、なぜそんな人物の生涯に起こった事実の探求に暇をつぶさなくてはならないのか?

 なかでも、最後の問いがもっとも致命的である。というのは、その問いに対して、わたしは次のように答えるしかすべがないからだ。「小説をお読みになれば、おのずからわかることですよ」と-。

 しかし、読み終わったあとでもやはり答えが見つからない、主人公アレクセイ・カラマーゾフの優れた面に同意していただけないとしたら、どうするか。わたしがこんな言い方をするのは、残念ながら、そのことが前もって予想できるからだ。わたしに言わせると彼はたしかにすぐれた人物なのだが、そのことを読者にしっかり証明できるのか、じつのところきわめて心もとない。要するに彼は、たぶん実践家ではあっても、あいまいでつかみどころのない実践家なのである。

 もっとも今のご時世、人々に明快さを求めるほうが、かえっておかしいというべきなのだろう。ただひとつ、おそらくかなり確実な点といえば、彼が、変人といってもよいくらい風変わりな男だということである。しかし風変わりであったり変人であったりするというのは、たしかにそれで世間の注意を引くことはあっても、むしろ害になるほうが多い。とくに昨今の混乱をきわめる時代、だれもが個々のばらばらな部分をひとつにまとめ、何らかの普遍的な意義を探り当てようとやっきになっている時代はなおさらである。そもそも変人というのは、多くの場合、社会の一部分にして孤立した現象にすぎない。そうではないか?

 もしもみなさんがこの最後のテーゼに同意せず「いや、そんなことはない」とか「かならずしもそうとは限らない」とでも答えてくれるなら、わたしの主人公アレクセイ・カラマーゾフのもつ意義について、わたしとしてはきっと大いに励まされる思いがするだろう。なぜなら、変人は「かならずしも」部分であったり、孤立した現象とは限らないばかりか、むしろ変人こそが全体の核心をはらみ、同時代のほかの連中のほうが、なにか急な風のふきまわしでしばしその変人から切り離されているといった事態が生じるからである・・・。

(後略) 

 

これが未完だなんて!!スメルジャコフの死の真相は!?未完だというのはなぜか聞いたことがあったけれど、不安だったので一応AIさんにも聞いてみました。

ドストエフスキー自身はこの小説を「カラマーゾフもの」の第一部として構想しており、イワンの思想的な転回やアレクセイ(アリョーシャ)のその後の成長、さらにはスメルジャコフの死の真相や父殺しの問題に対するより深い掘り下げなど、続編を書く予定がありました。

彼の計画では、アリョーシャがより積極的な人物になり、社会的・宗教的な活動を通じて「理想のロシア人」のような存在になるという方向性が考えられていたようです。しかし、ドストエフスキーは1881年に亡くなってしまったため、続編は書かれることなく、物語は未完のまま終わっています。

現在私たちが読む『カラマーゾフの兄弟』は、壮大な構想のごく一部でしかないという意味で、形式的には完結しているが、本質的には未完とされています。

ああ、読みたかったなあ。続き。でも未完のままでも、全てが入ってる。家族、宗教、社会、人間、哲学・・・ ほんとに壮大

最後に

ラテンアメリカ、チェコスロバキア、ロシアといった海外の小説ばかりとなりましたが、どれもやっぱりタイトルが素晴らしく、内容は簡単にはまとめられない壮大さであらゆるものを含んでいる。その重厚さに圧倒されて細かいこと忘れちゃったとしても、世界観にどっぷりひたった贅沢な読書時間を味わわせてくれる。そんな小説たちだなと、改めて思いました😊

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